路上に花を、私に愛を


 まだ梅雨も始まらない季節にしては、汗ばむほどの暑さを感じる朝。
王泥喜は、一張羅であるスーツを脱ぎ捨て(鴨居にハンガーで掛けてある)Tシャツにジーンズという軽装で、本日の同行者を待っていた。
 相手はみぬきちゃん曰く『王子さま』こと牙琉響也検事。
 一日の始まりから共に過ごせるというのは、かなり貴重な時間ではある。
常に忙しい彼と貧乏暇なしの自分。法廷以外は深夜の居酒屋で顔を会わせて飲む事の方が圧倒的に多いし、それこそふたりきりで過ごす時間など皆無に近い。

『海でも見たいなぁ。』
 …そんな言葉を口にしたのは、一体どちらが先だったのか。
 酔っぱらってしまったお互いの記憶は全くあてにならないものだったけれど、(ふたりで何処かへ行く)という予定だけは、決定事項になっていた。
 ともすると弛みがちになる顔を引き戻しながら待っていれば、腹に響く重低音。今時の王子さまは、白馬ではなくバイクに乗ってやってくる。
 それでも、一般的な自動二輪車から聞こえてくる甲高い音よりも遙かに深みがある音。それもそのはず、目の前のバイクは二輪しかないにも係わらず、国産の高級車に匹敵するお値段であることを王泥喜は知っていた。
 加えて、それに跨る王子さまも相当の値打ちものだ。
 片手で額の辺りを抑えながら、メットを外すと中から髪が零れる。さらりと流れ、肩へ落ちる髪が文句無く綺麗で、王泥喜の腕輪がある種の緊張に締まった。
「お待たせ。」
 笑顔でそう告げた牙琉検事は、王泥喜の格好を見るなり端正な貌を顰める。
「駄目、駄目。長袖を着ておいでよ、おデコくん。」
 王泥喜は自分の服装を一瞥し、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
 青い空から遮るもののない、太陽の光が降り注ぐ。朝方でこの温度だ。日中になれば、三十度は優に超えるに違いない。
「これでも、充分暑いんですよ?」
「それでも、だ〜め。」
 片手でメットを抱えて王泥喜を覗きこむように膝を曲げた響也は、普段の派手な出で立ちではないものの、長袖のシャツをきっちり着込んでいる。細身のジーンズに膝丈まであるブーツと、この季節にしては重装備だ。
 しかし、貌には汗ひとつ浮かんでおらず、王泥喜は感嘆と共にそれを眺めた。

 …そう言えば、先生が汗をかいたのを見たのはあの法廷がはじめてだったかもしれない…。

「何見てるんだい? そんな顔したって、こればっかりは譲らないからね。」
 何やら誤解を受けたようだったが、美人検事に言われて王泥喜は渋々上着を取りに部屋へと戻る。普通の長袖のシャツを羽織って出てくると、『それでいいんだよ』とメットを被せたが、ぴょこんと天に向かって伸びた王泥喜の前髪に爆笑した。
 走行中にも係わらず、どうにも笑いがとまらないらしい検事は、ミラーに映る王泥喜をちら見するたびに腹筋を痙攣させた。風に揺れる前髪はさぞ面白いらしい。
 それが小憎らしくて、腰を抱く腕に力を込めると同時に背中に顔を押し付ける。汗とは違う鼻を擽る香りが脳天を直撃して、王泥喜は危うく手を離しかけた。響也の手が、王泥喜の手首を掴み引き戻す。
「おデコくん、ちゃんと掴まっててくれないと危ないよ。久しぶりに二人乗りをするんだからね。」
 そうなんですか、と言う声はもちろん大声。そうでもしないと爆風の中で会話など出来ないが、日頃の発声練習の成果で問題ない。

 元々タンデムはしない主義なんだ。アニキだって乗せた事は無いよ。
 先生が乗るとも思えませんけど。
 そう言えば、誘った事もないな。一度くらい誘えばよかったかな。
 いや、だから、乗らないと思いますよ。絶対。
 
 途切れ途切れの会話が風に流れていく。
 前から後ろへ飛ぶように消えていく景色は、速度的には変わらないだろうに、箱の中に乗って移動する感覚とは全く違っていた。直接に身体に感じる振動が心地よいリズムを刻む。
 ああ、だからこの男はバイクが好きなのかもしれないと王泥喜は思う。あの、喧しいライブの振動にそして刻むリズムに、理解は出来ないがよく似ていた。牙琉響也という人間をまた少しだけ理解した、そんな気になる。

 あれ、だったら、何故タンデムをしないんだろう? 同じリズムを共有するのがギグだかなんだか…だろ?

 疑問を口にすると、響也の口調が僅かに籠もった。
 …でも、バイクは人間が生身で乗るものだから、ホントは恐いんだ。
 事故を起こすと同乗者の人生を狂わせる。下手をすれば潰してしまう。向こうの友人をバイク事故で亡くしてるから余計にね。
 
「だから、シャツ一枚だって大事なんだよ。事故を起こした時は生死を分ける。焼けたエンジンに直接触れると火傷もするし…。」
「じゃあ、どうして俺とタンデムを?」
「そりゃあ、おデコくんなら責任を取るのもいいかって思ったんだ。」

 おいおい、何を言いだしたのかわかってるのか、この検事?
腰に廻していた手に思わず力が入る。ツッコミを入れずにはいられない。

「……牙琉検事…それプロポーズみたいですよ。」

 途端、クラッチを制御していた響也の脚が滑った。エンジンがいきなり回転数を上げて、唸り声と共に車輪の方向がぶれる。鮮やかなスリップラインを残してバイクは停止した。
「おデコくんの馬鹿!!!」
 シールドを上げた顔は真っ赤で、小刻みに震えているのが可愛らしい。それも、事故を起こしそうになった動揺ではない事は明らかで、王泥喜の失笑を買った。
「いきなり変な事言わないでおくれよ。危うく事故るところだったじゃないか!」
「いや、俺は素直な感想を述べたまでで、牙琉検事が過剰はんのぅ…すみません。」 語尾に謝罪の言葉を付け足したのは、文句があるのなら此処で降ろすぞと、碧い瞳が王泥喜を睨んだからだ。
 海岸線に沿って長く伸びる道。道沿いには丁寧に世話をしているだろう花壇。淡い色の花が咲き乱れている。なんて綺麗な景色だろう。日頃の喧噪から逃れて心が洗われるようだ。
 でも、一体此処はどこなのだ。置いていかれたらどうやって帰ればいいんだ。
それだけは勘弁して欲しい。

「僕の命だって君に預けているようなものなんだからね、王泥喜法介。行動如何で、僕をどうにでも出来るって、わかってるのか!?」
 怒り冷めやらぬ様子でブツクサと文句を言いながら、再度エンジンを始動させる牙琉検事は、やっぱり自分が何を言っているのかわかってないらしい。
 愛の歌なんか書いてるせいか、日常会話のレベルが既にぽえむだ。

「さ、行くよ。乗って。」 
 言葉には黙って頷いて。そうやって、俺は捕らえた人を抱き締める。

〜fin


結局何処へ行ったんだろうか(苦笑


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